由来と歴史

鬼子母神像

当山にまつる鬼子母神像は永禄4年(1561)1月16日、雑司が谷領主柳下若狭守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白)の畦より掘り出し、星の井(清土鬼子母神の境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、当山の塔中(たっちゅう)東陽坊におさめました。

「東陽坊」は後に大行院と改称されその後法明寺に合併されました。東陽坊の頃に、ある僧侶が、鬼子母神の霊験顕著なことを知り、密かに尊像を故郷の安房に持ち帰ってしまいます。するとたちまち病にかかり、その地の人が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したと伝えられています。

その後、安土桃山時代の天正6年(1578)に「稲荷の森」と呼ばれていた法明寺境内の一角に、改めて、鬼子母神をまつるお堂を建て安置しました。これが雑司ヶ谷鬼子母神堂のはじまりで、雑司が谷の鎮守・子育・安産の神様として現在に至ります。

寛文4年(1664)、法明寺15世智照院日了上人の時代に、加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主淺野光晟公の夫人であった自昌院殿英心日妙大姉の寄進によって本殿が建立されました。

お堂は本殿・相の間・拝殿が連結した権現造で総銅板葺です(当初の屋根はとち葺でした)。本殿は三間四面、内外ともに総漆塗装が施され、天井は金箔押しになっています。本殿内の奥には禅宗様須弥壇を設けて宮殿を配置しています。

鬼子母神堂は、大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の第二次世界大戦を免れ、昭和35年(1960)に東京都有形文化財の指定を受けました。昭和54年(1979)に、法明寺48世一厚院日悠上人が解体修理を行い、屋根葺替・部分修理を行い、拝殿を浅瓦の綴葺から銅板の平葺へ変更し、全体が銅板葺屋根としながらも当初の姿に復旧整備しました。

平成28年(2016)7月25日には文化庁の審議を経て国の重要文化財の指定を受けました。

また堂内には2代目鳥居清満の三人静白拍子図や鳥山石燕の大森彦七図、狩野愛信の鶴図、観崇月の末広かり図、中邑如流・為笑の牛若丸慶五条橋図など江戸時代に奉納された絵馬がおさめられています。

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